前回、行くに至った経緯をお話ししました。その続きです。滞在は3日間。ちょうど佐賀福岡で冠水する大雨が降った2019年8月のことでした。
西鉄久留米駅から八女営業所行きのバスに乗って30分、八女の中心市街「八女市福島」に到着しました。そしてバス停から10分ほどあるくと「うなぎの寝床(以下うなぎ)」の店舗が。ここでうなぎのスタッフの皆さんとお会いし、その日は八女の街をまず見てみることになりました。1日目のこの日は八女市福島の概要・特徴をつかむ,2日目はうなぎの店舗での業務内容を知る,3日目はうなぎと筑後地域の人(生産者)との繋がりを知る,といった大まかな流れです。
行く前から意識していたテーマに沿って、つらつらと書いていこうと思います。ただどうしても長くなりがちですのでできる限り簡潔に。
そもそも八女とはどんな街なのか
もともと、八女という地名は郡を指していて、広い地域です。現在も八女市という行政名に残っていますがそれもまた広いです。今回対象にするのはそのなかでも八女市福島町(八女福島)というところになります。まずは現在の航空写真を見てもらいます。
丸く囲ったところが八女福島です。緑色が田畑,白っぽくなっているところが都市だとすると、基本的には線路のそばに集まっていますよね。(「佐賀市」と書いてある場所の右側、筑後川沿いにも発達しているところがありますがこれは家具のまち大川町です。)八女福島、ここも建物が多く集まっていることがわかります。線路から離れているのに。なぜでしょう?
-1 街の形成
今昔マップから、1900年測図の地図で見てもらいましょう。
八女福島を拡大したものです。東西に横断する道路と、北から南東に抜ける道路が交差する場所にあることがわかります。そして東西の道路はくねくねと曲がっていて、建物が密集している場所(黒く塗りつぶされています)がそれに沿っていますね。
簡単に言うと、八女福島は“江戸時代前期から発達した、町人商人の街”と捉えて良いと思います。もともと1587年に造築された福島城をのちに別の城主が改築し城下町の原型が出来上がりました。そのとき城の南側を町人商人に住まわせました。20年ほどで廃城になってしまいますが、地割は城下町風に残り、町人の住んでいた場所が、上の地図で黒く塗りつぶされているところです。そこを街道が通ったので1900年時点でもこのように街が発達していました。
(このペースで書くと終わらん…)
ということで、この街は江戸時代初頭からあり、街道も整備されていました。加えて、地域の南部を流れる矢部川という川が上流の山地や下流の街と繋げる役割を果たしていました。
八女は福岡県の中でも、伝統工芸品に指定されているものの数がかなり多く、特に提灯の製造では日本一の生産量、仏壇や灯篭など、仏事に関連する産業が根付いています。これらも、矢部川上流部から運べれてきた原料(竹・コウゾ)や阿蘇山の影響で近くにある凝灰岩を使ったもの…ということで深掘りする余地、あります。(実は八女市は熊本県と大分県の自治体と接しているんです、ずいぶんと内陸まである大きな自治体です。)
注目すべきは、これらの伝統工芸を守っている人たちが今もいることでしょうか。その点、“祭り”の存在も大きいと思います。歩いて福島八幡宮を訪れてみると、ちょうどこのとき残り2週間ほどに近づいていた灯籠人形の舞台の準備をしていました。この祭りがあることで、建築や人形の制作,舞台の装飾などそれぞれの技術が継承されてきているといいます。
技術の継承 は八女を見るときに重要な視点かもしれません。
-2 町並み保存
八女福島は2002年に重伝建地区(重要伝統的建造物群保存地区)に指定されていて、町並みが評価されています。観光の視点で見に行くとどうしてもそのガワだけに注目しがちなのですが、ここで特筆すべきは、価値が埋もれていたこれらの町並みに気づき、目的に応じた団体を立ち上げ、行政と連携してきた人たちの存在だと思います。
-1で述べたような八女福島の地割や町並みは、モータリゼーションの波にさらされ、街に立ち寄る人たちが減っていきました。周縁の土地にバイパスが通り、ロードサイド店が立ち並んでいったおかげで、ある意味余計な手を加えられずに建築物が残りました。『福岡 八女福島 まちづくりの記録(発行:うなぎの寝床)』という記録集によると、1991年、新聞記者からの呼びかけや台風17.19号の影響を受けて、市民の動きがきっかけで町並みの価値に気づき伝えていく組織が生まれてきたといいます。
(私は町並み保存について知識があまりなく正確に伝えられているのかわからないのですが)八女ではこれ以降、町並み保存に関連するNPOを多く立ち上げていきますが、活動の内容や職業集団の違いによってNPOをうまく使い分けているように感じます。例えば、2000年に発足した「NPO法人 八女町並みデザイン研究会」は福岡県建築士会の八女地域の会員を行政が集め、町家の修理修景や技術継承などに特化している組織です。
そのほかにも、これらの建築物(主に町家)の所有者と利用を希望する移住者とを繋げることを専門とするNPOや、若年層によるイベント企画が行われているNPOなどあるそうで、活動が幅広いなあと感じました。構成員はあまり変わらないそうですが、役割に応じてNPOを使い分けている。特に街に点在する空き家を活用するためにどのような手続きをとってきたか、その際どこが鍵になるのかがこの本にはよくまとめられていました。それらが本(記録集)になっているもすごいことだと思います。ページ割りも良く、見やすいです。
実際、歩いてみて紹介したいと思ったのは八女郡役所。
建物自体が大きく、長らく目立つ廃墟だったそうですが、適度に改装され、中には酒屋さんが入っていました。話をしていると、この街の仕組みや写真のことなどを教えてくれました。NPO八女空き家スイッチの理事長をされていることを後から知りました、高橋康太郎さん。
酒屋さんといっても、本棚があってみんなで持ち寄ってそれらをテーマに夜話をしたりするそう。人が集まれて、あくまで酒屋さんであるんだけれども別の使い方もできる。そういう隙間の作りかたが美しいなあと思ったりします。
郡役所から歩いていたらすぐに、今度は花火屋さんを発見。
こういう産業が、街を歩いていて見れるのも貴重だなとおもいつつ。
総じて、半日ではありましたが歩いていて、手工業が大切にされている街に感じました。加えて、それらが行われていることが見えやすい。観光利用というよりは、生活の場として使われている印象が強かったです。活動の場となる建物自体を修繕し、建造物群=町並みを維持していく体制が整っている様子も知れて、活動のハコを整えることの重要性に気づけました。
ということで、一つ目のテーマ「八女はどんな街なのか」について、実際に歩いてみた感想と聞き取りから書いてみました。ずいぶん端折ってしまいましたが。
次は、そういう街にあるうなぎの寝床とはなんなのか、‘全体の中の個’の目線で考えてみたいと思います。長々とありがとうございました。