twitterで#こだま秋田 とタグをつけて実況していましたが、3日間の秋田旅行をしておりました。帰ってきて、横手にいた時のフィルムのデータ化が終わったのでここで一つ、記事を書こうと思います。
1.増田町へ移動する
3日間の行程のうち、1日目の午後から2日目の午前にかけていたのは秋田県南東部の街、横手市増田町です。秋田県の南東部、奥羽山脈を超えたら岩手県といったところ。横手といえば豪雪地帯で有名ですね。訪問した日程では雪がほとんどなく。かまくらが開催できるかわからない…と仰っていました。
秋田市内を散策してから昼すぎに出発して大曲で乗り換え、横手行きの普通列車に乗車。
今回は2ヶ月ほど期限が切れたACROS100を持っていきました。現像は大学の暗室で、データ化はマクロレンズで接写してLightroomで調整しています。
横手駅からバスに乗り十文字駅前で下車しました。そこからはこのタイミングでバスがなく、歩いて増田の中心部へ向かいました。2kmほどではありますがここでにわか雨に遭います、風もあって寒いので途中にあったバス停の待合室で雨宿り。
そうこう40分くらい歩いていたら宿泊する旅館に到着。その日泊まるのは私だけみたいで、一番奥の、庭がよく見える部屋へ通してもらいました。寒い廊下でしたが部屋に入るとぽっかぽか。畳にストーブ、この組み合わせはずるい、部屋の香りが、理想の冬そのものでした…。
その晩はゆっくりとご飯を食べ、お風呂にも入り、部屋でレンズの整備と荷物の整理を。普段はあまり見ないテレビも、浴衣を着てひとりストーブの効いた部屋で見る。そうこうしていると11時ごろになりました。
2.旅館でひと段落、そこで初めて読む写真集
この旅行をするまでに読んでおきたい本があったんです。秋田に行くのにこれを読まなきゃと思いつつも、なかなか手に入らず、ちょうど出発する前日の昼に家のポストに届いたのでそのまま秋田まで持ってきていました。
近代日本の写真家、木村伊兵衛による秋田の農村を写した写真が収められた「秋田」です。この写真集自体は木村の死後にまとめられたもの(ニッコールクラブの会員に配られた非売品)で、1952年から6回訪れて撮られた写真を見ることができます。
私自身、今回秋田に来て、しかも初めて来て、鉄道移動がほとんどのこの旅行、乗車中に流れ込むまちの景色は、できる限り記録したいと思って来ていました。これまで書いた6つの記事にも垣間見えているかもしれませんが、「自分がいるときのその土地,そこで生きる人と話し記録する」ことが、もっぱら私の旅行の目的です。最近はもうそう言ってしまって差し支えないと思います。
そうやって考えていくと、撮影することの意味や撮影の手法に、拘りがでてくることになります。そこで、かつての写真家たちが、地域の記録・いわゆるスナップ撮影をどう捉えていたのかは、ひとつの指標として考慮してもよいと思うわけです。
この写真集では冒頭に、木村と親交があった伊奈信男による解説が付してあります。要約すると以下のようなものです。
撮影対象のニュース性を求めて撮影する報道写真ではなく、単にあらゆる事物の姿・事象を記録するフォト・ルポルタージュが、海外で構想され日本に入ってきた。木村はそれを感ずいていたものの、東京での肖像写真家としての活躍から遠のいていたが、戦後すぐ、これは写真の行くべき道であると考えフォト・ルポルタージュを始めた。一連の秋田での写真はその代表作である。
秋田県大曲付近の農村をテーマにして、過去の風習を忠実に守っている保守的なものと、若い世代によって移り変わっていく現在の農村の赤裸々な姿を撮影してきた。
(p.8から引用)
とありました。ちょうど今回訪問した横手や大曲での写真。70年ほど前のこの場所・人の姿をこうして知ることができる。全国総合開発計画に始まる戦後の産業政策が行われることを勝手に意識しながら、それ以前の東北秋田の農村風景に思いを馳せていました。
農村の風景をできる限りそのまま記録したという点では、写真に限らず記述の力も大きいように感じます。奥羽山脈の反対側、岩手県の民俗といえば柳田國男、写真と記述の併用で記録した宮本常一など、民俗学者の著作をそこで思い出しました。地域の情報を記録するという意味では、木村伊兵衛のやったことも宮本常一,柳田國男のやったことも、近しい作業だったのではと思います。
だからといって、特殊な地域性ばかりを取り上げようとしていま地域を見るのはナンセンスだ と自分に言っているつもりです。等身大の記録がすこしでもできれば良いなと思って、翌日に備えて2時頃に就寝したのでした。
翌日のお話はまた次で。