こだまです。
出かけるのが好きな僕は、近くても遠くても、とにかく歩いたり景色を眺めたりしているだけで満足だったりします。その場の満足だけじゃ納得できないじゃないですか、やっぱり後から見たり聞いたりしてそのときの感動?を楽しみたいんですよね。となると、何らかの方法で記録することになります。
そこで、一番僕にとって身近なのは写真です。写真の特性ってなんでしょうか。
写真を撮るとき、「撮ろう」と思ってからシャッターを切ります。機械を操作するという特性上、どうしても撮影は主観的な行為です。そう、撮影は意識しないと普通できません。(もっと言い換えると、“自分が存在していること”を前提にしています。これは、「撮っているのは紛れもない僕だ」という意識に繋がります。自分が撮る意味を考える時、その意識は意外に重要だったりします…。)これが、今の所ぼくが考えている写真の特性。
だけど後から考えてみると、旅行から帰ってきて思い出すものって、街を自転車に乗って移動したときに見た住宅街の道路とか電車の中でみたおじさんとか「で?」と言われてしまいそうな、まあどうでもいい瞬間なんですよ。
つまり、僕が写真を撮るのは、旅行で感じたことや記憶を後から引き出すためです。その手段として写真という記録を使いたい。だけど旅行から帰ってきて写真を見返すと、記憶に残っている瞬間の景色を写した写真がほとんどなく「あの時に撮ればよかった」という後悔に襲われるんです。記憶を記録できないんですよ。いいなと思った時、同時に写真を撮ることができればいいのですが。旅行から帰ってくると、そのような「反省(?)」が溜まっていきます。
いかに無意識にシャッターを押すことができるか。正確には、心が動かされたタイミングでタイムラグなく記録できるか。撮影にはワンテンポ必要です。iPhoneであれデジタル一眼レフであれ、フィルムカメラであれ、シャッターを押す必要があります。
ややこしいことに、僕の場合、写真が好きというのは、機械そのものへの興味もあります。このボディはどういう機能を持っていて他のカメラに比べてこんな特性があって…。だから、機械(機材)の違いも楽しみたいんです。機材を選ぶところからもう始まっています。
カメラを使うという第一段階にも喜びはあって、それを使って得られた写真について考えるという第二段階にも喜びは存在することがわかります。結果、それだけ撮影者(僕)が写真に介入せざるを得ないということです。
記憶を写真で記録したいけどなかなかタイミングよくできない…そんなジレンマに、悩んでいます。僕の場合、旅行がそう思うきっかけになっているんですね。
まあ具体的にみてもらった方がいいかもしれません。だから、次の文章からはそれをみてもらおうと思います。京都という具体的な土地をフィールドに、そこに旅行する私が、行くたびにどう意識が変わっているのかを追っかけてみようと思います。
ありがとうございました。
(2019年11月に再公開しました)
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